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TRIZの創成者 Genrikh Saulovich Altshuller

ゲンリフ・サウーロヴィッチ・アルトシューラ

Genrikh Saulovich Altshullerの写真1 ゲンリフ・アルトシューラは1926年10年15日、タシュケントで生まれました。彼の両親はともにバクー生まれでした。父親は新聞『ザリャー・ヴォストーカ(東方の暁)』紙の編集部に属していました。ゲンリフが5歳のとき、両親はバクーに戻りました。ゲンリフ・アルトシューラは1990年までこの街で生活し、その年にペトロザヴォーツクに移り住みました。そして亡くなるまでの間、そこで暮らし、活動し続けたのです。

 生涯のかなり早い段階で彼は図書館というものの存在を知り、そこで本を読むようになりました——そのほとんどがサイエンス・フィクションの小説でした。幸運なことに彼は小学校でとてもよい先生とめぐり合いました。そして将来は船乗りになることを夢見ていたといいます。8年生で小学校を卒業すると、彼は特殊海軍学校に入学します。第二次世界大戦が始まると、生徒はみな前線へ送り込まれました。しかし、ゲンリフはほかの生徒たちより1歳年下でした——そのために、彼はバクーにとどまり、中学校で勉学を続けることができました。

 彼は10年生のころに早くも自身最初の発明者証 (авторское свидетельство, auther's certification) を「過酸化水素を利用した潜水具」の発明によって取得しました。中学校を卒業すると彼はライフル銃連隊に配属され、そこから航空学校に派遣されました。彼が航空学校を卒業すると同時に、第二次世界大戦は終了しました。

Genrikh Saulovich Altshullerの写真2 そこでゲンリフ・アルトシューラは、バクーの海軍小艦隊への配属を志願します。このようにして、彼はバクー小艦隊の特許審査部で働き始めたのです。そこでも彼は様々な発明を続け、同時に周りの人々に発明の仕方を教えるようになりました。ほかの人に発明の仕方を教える中で彼は、発明の方法や技術を学ぶか、あるいは自ら考案する必要があることに気づきます。発明を行う人間を対象として研究を行っていた心理学者とは対照的に、ゲンリフ・アルトシューラが着手したのは発明それ自体に対する研究——つまり、人類の作り出した技術システムを対象とした研究でした。彼は顕著な特徴——すなわち凡庸な発明には見られない、「優れた」発明だけが持つ特徴を探すことから始めました。彼は自身の方法の基礎として矛盾という概念を選択しました。そして、発明者証や特許を網羅的に分析することで、技術的矛盾の解消のための標準的手順を特定したのです。

 アルトシューラが研究の成果を初めてまとめたのは1948年のことです。友人のR.シャピロとともに祖国の発明を取り巻く状況が極めて貧弱であることを説明した書簡をスターリンに送ったのです。この書簡の最後の部分で彼は、発明問題の解決を可能にする方法を考案したことを報告し、自らがその方法を発明に取り組む人々に教えることを提案しました。

 この書簡は30ページに渡るもので、執筆には6ヶ月近くを要しました。その時点でアルトシューラはわずか22歳でした。ところが1950年、この書簡のために彼は友人ともども逮捕されてしまいます。彼らはモスクワで、眠ることすら許されない過酷な取調べを受けました。裁判は刑法第58条によって特別法廷で行われ、アルトシューラは懲役25年の宣告を受けヴォルクタの街{ここに強制収容所がありました}へ送られました。

Genrikh Saulovich Altshullerの写真3 アルトシューラの母親は1953年に恩赦の請願を行いますが、それが拒否されたために自殺してしまいます。彼の父親はそれ以前に亡くなっていました。1954年にアルトシューラは名誉を回復し、出所します。

 1956年には、アルトシューラの署名入りの最初の論文が『心理学の諸問題』誌に掲載されます。この論文の眼目は、技術は客観的法則に基づいて進化するものであり、その法則を研究しなけらばならない、という点にありました。この論文ではまた、発明といえるようなあらゆる課題というものは矛盾を明らかにし、それを解決することに他ならない、という点も強調されていました。

 アルトシューラは彼自身数十の発明を行いました。中でも最も興味深いものは、鉱山におけるレスキュー隊員のための防御服でしょう。

 名誉回復の後アルトシューラはしばらくの間ワイヤーロープの製造工場で働き、その後『バキンスキー・ラボーチイ(バクーの労働者)』紙の編集部に務めた後、アゼルバイジャン共和国の建設省に勤務します。彼が大学で学位を得たのもそのころでした。

Genrikh Saulovich Altshullerの写真4 60年代中ごろに彼は務めをやめ、著作生活に入ります。

 アルトシューラはサイエンス・フィクションの作家でもありました。彼はゲンリフ・アルトフの筆名で数々のSF小説を発表しました。彼のSF小説はいくつかの言語に翻訳され、アルトフという作家の名はSF百科事典にも記載されています。しかし彼の活動の重心は少しずつSFからTRIZへと移り、やがて彼は残りの生涯をTRIZだけにささげるようになります。

 TRIZの方法の誕生は決してたやすいものではありませんでした。10年もの間(1958年から1967年まで)彼は、発明家・改革家全ソ協会本部 (ЦС ВОИР) とのやり取りを続けました。彼が求めていたことはただ一つ、彼の方法を人々に伝えることだけでした。しかし彼の請願は10年もの間拒否され続けたのです。

 1970年、発明家・改革家全ソ協会本部は発明方法研究所 (Общественной лаборатории методики изобретательства) の設立を決定し、翌1971年にはアゼルバイジャン発明創造学校 (Азербайджанский общественный институт изобретательского творчества) が設立されました。これはこの種の学校としてはソ連でも初めてのものであった若者向けの発明学校を改組したものでした。

 アルトシューラは科学的研究活動の組織化に努力します。発明方法研究所の研究者はまるでリレー競争のように研究を行っていました。つまり、研究を完成させられなかった研究者が、それまでの成果を研究所に残る同僚に引き継ぐかたちで研究が続けられていたのです。アルトシューラは理論の開発を効果的に進められる開発チームを組織することに苦心しました。

 TRIZを教える学校がソ連の多くの都市に設立されるようになりました。

Genrikh Saulovich Altshullerの写真5 1974年に発明家・改革家全ソ協会本部は発明方法研究所を閉鎖します。TRIZを教える学校を全国に設立することを中止せよとの命令にアルトシューラが従わなかったためです。TRIZ学校設立の流れは発明家・改革家全ソ協会の本部がコントロールできないほどの勢いになっていたのです。研究所が閉鎖された際にアルトシューラは、アゼルバイジャン発明創造学校の職を辞します。TRIZに対する見解をともにしていたほかの教師たちも彼に続きました。

 アルトシューラはまた、TRIZコミュニティ——仕事や生活にTRIZを使用する人々の集まり——の組織づくりにも多大な努力を払いました。

 1990年代にはTRIZは、世界中で広く認知されるようになります——それは先進的な諸外国からでした。近年ではTRIZは米国で広い認知を得ており、そのことは特に、アルトシューラの著作が米国や日本、そしてその他の国々でも出版されたこと、パソコン用ソフトウェア「インベンション・マシーン」が開発されたことなどが物語っています。

 アルトシューラは多くの著作を残しました。彼の本は多くの言語に翻訳されています。近年では研究者たちは、教育の現場をはじめとして人類の活動の様々な分野でTRIZを導入しています。

 ロシアTRIZ協会は1989年に設立され、それ以来TRIZコミュニティの組織化のために多くの活動を行ってきました。1997年にペトロザヴォーツクで開催されたTRIZ協会の通常総会において、国際TRIZ協会を設立する決定が採択されました。

 本稿はL. コジェーヴニコヴァ氏提供の情報に基づいて1998年9月28日に書かれたものです。次のサイトで更なる情報をごらんいただくことができます:http://www.altshuller.ru/(ロシア語)。

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